木曜日, 7月 13, 2006

状況論とインタフェエース論の違い2

あらためて、状況論とインタフェース論の違いについて整理してみることにしよう。

・インタフェース論

日常のものの扱い方、道具の使い方を参考にしてシステムの上でそういうものを再現しようとする。そういう目的で、そういうセンスで日常を見る。

ひらたく言えば、アナログ的に使えるインタフェースの実現をめざす。逆に、そういうレベルで日常、現実を見ようとする。

ここにあるのは、日常をデジタルに載せよう、載せたいという発想。「もの世界わかりやすいじゃん、それなら、デジタル世界もものっぽくすればわかりやすい。」

活動の流れをみたり、活動の中で用いられる様々な人工物の連携を考えて新しい人工物をデザインしようということではない。

ひどい場合は、字ではなく絵にしたらいいという発想になる。

・情報デザイン

基本的には、インタフェース論にのっかったもの。デジタルにせよ、図による表現にせよ、孤立したインタフェースを作ることが目的。もの世界をデジタルに載せようという志向性。

リアルな世界のアナログ的な側面をシステムに載せようという発想は、偶然出てきたものではない。

世界のアナログ的な写しをデジタル世界に作ろうという一種の表象主義とも言える。

・状況論      

例えば、世界は、どのように、どのような人工物によって誰によって可視化されているか。どのような実践や社会組織の中でそういうことが行なわれているかということに関心がある。
        
活動の流れを見た上で、人工物をどのように再デザイン可能なのかを問う。

様々な人工物、リソースが、どのように連携して使われているか、一つを動かすと、全体がどのように再編されるのかを見る。

あるいは、ある活動の中における人々、知識、もの相互のアクセスの構造のデザインに関心がある。(こういう関心が、web2.0の技術への関心につながってくる。)

この観点からすれば、人工物のデザインとは、世界の写しを作るのではなく、世界や環境の一部を作るということ。
         
日常を見るという観点が、インタフェース論とは根本的に異なっている。

アナログでかっこよく表現することが目的ではない。状況論からすれば、ときには、シンプルな記号のリストが、もっともよい人工物になりうる。なぜなら、人工物は、一つで完結しているものではないから。

水曜日, 7月 12, 2006

状況論とインタフェース論の違い1

状況論とインタフェース論は人工物のデザインというとき、全く異なったことに焦点を当てる。

インタフェース研究は、ノーマンに代表されるように、システムを操作する際の表層的なわかりやすさ、使いやすさを研究、デザインしてきた。システムの操作系のアナログ化、デジタル的な対象の”直接操作”を可能にするデザインなどは、すべてこういう観点からなされている。

こうした観点の背景にある理論はシンプルだ。要するに日常の認知系、知覚系に自然にフィットする人工物こそが、いいデザインということになる。あるいは、日常のアナログな行為を、システム上でも実現させることが、インタフェースのデザインの目的になる。

しかし、日常の認知系、知覚系とは何か。抽象的に、かつ、一般的にそのようなものが定義できるだろうか。

あるいは、日常の行為をアナログというようなレベルで捕らえるような観点で、実践的に使えるデザインができるだろうか?

こういうインタフェースの発想の極限が以下にあるようなものだ。

三次元GUI

一言で言えば、こうした発想は、実践全体を見るとか、活動の社会性、多層的なリソースの関連付けた使用を見ていこうという発想が全くない。

もちろん、インタフェース研究が日常の行為を見ないというわけではない。問題は、見る際の観点だ。彼らが見ることは、素朴なアナログ的な認知、行為といったことに切り詰められている。

上のビデオの事例は典型的だ。つまり、日常の活動の観察が、アナログ的に書類を積み重ねるとか、まとめるとかそういうレベルにとどまっている。

し かし、人々は、意味なく書類を積み重ねるわけではない。なんらかの仕事があったり、仕事上、何物かへのアクセスを容易にするというような中で書類を積み重 ねている。要するに、書類を整理することの背景には、活動の流れがあるはずなのだ。ポイントは、ものをアナログ的に扱うかどうか、コンピュータを使う行為 か、使わない行為か、あちら側とこちら側という問題ではない。実践の中では、こうしたものは、すべて連関し、連続したものなのだ。

このように考えるとき、情報デザインのテーマは、インタフェースのデザインということを大きく超えたものになる。あるいは、従来とは、根本的に異なった軸に焦点を当てることを可能にする。