水曜日, 7月 12, 2006

状況論とインタフェース論の違い1

状況論とインタフェース論は人工物のデザインというとき、全く異なったことに焦点を当てる。

インタフェース研究は、ノーマンに代表されるように、システムを操作する際の表層的なわかりやすさ、使いやすさを研究、デザインしてきた。システムの操作系のアナログ化、デジタル的な対象の”直接操作”を可能にするデザインなどは、すべてこういう観点からなされている。

こうした観点の背景にある理論はシンプルだ。要するに日常の認知系、知覚系に自然にフィットする人工物こそが、いいデザインということになる。あるいは、日常のアナログな行為を、システム上でも実現させることが、インタフェースのデザインの目的になる。

しかし、日常の認知系、知覚系とは何か。抽象的に、かつ、一般的にそのようなものが定義できるだろうか。

あるいは、日常の行為をアナログというようなレベルで捕らえるような観点で、実践的に使えるデザインができるだろうか?

こういうインタフェースの発想の極限が以下にあるようなものだ。

三次元GUI

一言で言えば、こうした発想は、実践全体を見るとか、活動の社会性、多層的なリソースの関連付けた使用を見ていこうという発想が全くない。

もちろん、インタフェース研究が日常の行為を見ないというわけではない。問題は、見る際の観点だ。彼らが見ることは、素朴なアナログ的な認知、行為といったことに切り詰められている。

上のビデオの事例は典型的だ。つまり、日常の活動の観察が、アナログ的に書類を積み重ねるとか、まとめるとかそういうレベルにとどまっている。

し かし、人々は、意味なく書類を積み重ねるわけではない。なんらかの仕事があったり、仕事上、何物かへのアクセスを容易にするというような中で書類を積み重 ねている。要するに、書類を整理することの背景には、活動の流れがあるはずなのだ。ポイントは、ものをアナログ的に扱うかどうか、コンピュータを使う行為 か、使わない行為か、あちら側とこちら側という問題ではない。実践の中では、こうしたものは、すべて連関し、連続したものなのだ。

このように考えるとき、情報デザインのテーマは、インタフェースのデザインということを大きく超えたものになる。あるいは、従来とは、根本的に異なった軸に焦点を当てることを可能にする。

0 件のコメント: