金曜日, 10月 13, 2006

web2.0の演習

「情報と教育」という2年生対象の演習で、web2.0の技術を使って、あるテーマでサイトを作るというようなことを始めた。
具体的には、学生が、書き込み可能なGoogle Mapのプログラムをエディターで編集し、サーバにアップし、各グループで自分たちなりのテーマでマップを作るというようなことを行なう。開始直前は、無謀な試みと思えたが、なんとかなりそうだ。多くのグループは、テスト版および実用で使えるバージョンのアップに成功。書き込み可能なGoogle Mapのプログラムを書いたのは研究室学生。

なにしろ大変なのは、演習とは言っても、学生が80名近くいること。アシスタントが二人いても、これは大変。今は、コンピュータの先生みたいだ。どういうテーマで、どういうフィールドワークをやって、コンテンツを作るかがメインテーマだが、一方で、多少のウェブ技術のお勉強。

この演習のためにサーバをセッティングしてくれ、かつ書き込み可能なGoogle Mapのプログラムを書いた研究室学生が、こういうweb2.0の授業は、日本で始めてではと言っていたが、多分、そうなのだろう。

今回のこの演習では、わかりやすいテーマと技術の学習がマッチしていて、学習環境をアレンジしている側としては楽しい。

金曜日, 9月 22, 2006

10月上旬刊行「文化と状況的学習:実践、言語、人工物へのアクセスのデザイン」

10月10日発売

上野直樹・ソーヤーりえこ編著「文化と状況的学習:実践、言語、人工物へのアクセスのデザイン」凡人社

定価2,100円 ISBN4-89358-629-7

目次
0. はじめに   上野直樹・ソーヤーりえこ
1. 理論編
 1.1 ネットワークとしての状況論  上野直樹
 1.2 社会的実践としての学習 ー状況的学習論概観ー ソーヤーりえこ
 
2. フィールドワーク編
 2.1 理系研究室における装置へのアクセスの社会的組織化 
   ソーヤーりえこ
 2.2 実践に埋込まれたインタラクション
   —理系研究室における実験の社会的組織化—  柳町智治
 
 2.3 教室における知識・情報のネットワーク:入門フランス語クラス
   での調査から  柳町智治
 2.4 リソースの組み合わせとしてのインタラクション
   —「アクションの理論」による終助詞「ね」の分析—  岡田みさを


以下は、その中の一章「ネットワークとしての状況論」からの抜粋です。なお、以下も同じ章からの抜粋です。
ネットワークの終焉

PARC:サッチマンの苦悩

この当時、PARCにいたサッチマン・グループは、IRLのような経営的な問題を抱えてはいなかった。むしろ、すでに述べたように、サッチマンにとって華やかな舞台であったPARCが、同時に彼女の苦悩の種でもあった。このような傾向は90年あたりからもう始まっていたようである。彼女たちは、ある時期から企業内で研究をやって行くことにおいて、明らかに行き詰まりを感じていたように思われる。サッチマンによって書かれたCSCWの二つの論文がその苦悩を象徴している。(Suchman, 1994a, 1994b)

 サッチマンの苦悩とはどういうものであったのだろうか。論文から推察できることは、一つには、伝統的なデザインの分業関係と彼女たちの実践のズレにあったように思われる。彼女たちは、一連の研究の中で、孤立したデバイスの創造としてのデザインという見方を大きく変化させて行った。つまり、彼女たちは、隔離された場面を作り、ものと人とのインターラクションを分析して、そこからユーザビリティやデザインについてのアイディアを導き出すという実験室的手法のパラダイムではなく、現実の実践全体を見るべきだという観点を持っていた。こうしたことに関連して、サッチマンたちは、従来的なデザイナー/ユーザという二分法を問題視していた。彼女たちによれば、デザインとはネットワーキングであり、分業の境界を横断する営みなのだ。
 しかし、彼女たちが企業の研究所の中で要求されていたことは、伝統的なユーザビリティの調査であったように思われる。彼女たちのような実践全体を見るという観点は、伝統的なデザインの言葉に翻訳するのは、難しかったのだろう。そして、調査、分析-デザインという分業体系が、それをより困難にしていたとも言える。企業の中では、デザインとは、あくまでデザインの専門家が行うものであったのだ。
 彼女たちの目指したことは、こうしたデザインにおける分業関係の再編ということであった。しかし、こうした再編、あるいは、再ネットワーキングは、実際にはそれほど容易なことではなかったのだろう。結局、サッチマンが、PARCに在任中、こうした再編のあり方に関して具体的なケースを示すことができなかった。こういうことを可能にするためには、新たな同盟を可能にするような“翻訳” (Latour, 1987)が必要だった。彼女たちは、こうしたことをやりきることができなかった。

  サッチマンが、PARCを去るにあたって、その理由としてマネージメント・サイドとのコンフリクトなど様々なことがあったと言われている。しかし、多分、それは、表層的なことなのだ。CSCWの二つの論文は、サッチマンの苦悩と理論的、実践的な限界を示すものであったと思う。
...................

状況論が人工物を含む学習環境などのデザイン実践に関与しようとするとき、新しい課題が明らかになってくるように思われる。このことは、また、前節で述べたエスノグラフィーを実践として捉えるという観点とも関連している。つまり、デザインにせよ、エスノグラフィーにせよ、それは、参加やアクセスをデザインするという実践であり、また、そうしたデザインのための新しいネットワーク構築や同盟形成の実践である。
 すでに見たように、状況論にとって、企業は重要な同盟の対象であった。このことが、状況論にとって強みでもあったし、また、同時に弱点でもあった。実際に、状況論的アプローチにおけるキーワードの一つは「ワークプレイス」であり、このアプローチの中で、盛んにワークプレイス研究が行なわれた。このことによって、学習、知識、人工物に対する見方は大きなひろがりを見せた。一方、当初、それほど意識されていたわけではないが、ワークプレイス研究は、単にフィールドとしてワークプレイスを選ぶというだけでなく、あるレベルを超えるとき、企業との同盟をどのように構築できるか、一つの企業の利害を超えた研究やデザインは可能かということが問題になってきたように思われる。この問題は、まさに企業の研究所の中にいたサッチマン・グループが抱えていた問題である。企業と同盟するということは、例えば、改めて、誰のための人工物のデザインか、誰のための知識の組織化かということが問われなければならなかったということである。
 今の時点で見るなら、一つの選択肢は、実際、これまでもある程度なされて来ているが、地域やオープンソース的なネットワークとの同盟を構築するということである。こうしたあらたな同盟、ネットワークを構築して行く中で、状況論をより現代的な形で展開することが可能になって行くように思われる。

日曜日, 9月 17, 2006

mashstarと懐かしの"アルバム”

mashstar

洛西さんのブログで紹介されていた。洛西さんがweb2.0のマッシュアップを説明するために作った習作だそうだ。
Rakusai on Human Interaction

何も準備していなくても、その場でプレゼンテーションができるサービスというふれこみ。トップページで、例えば、Jean Laveと入れると、Jean Laveの”スライド”を勝手に作ってくれる。また、各スライドをクリックするとリンク元にとべる。


そこで、このサイトで、状況論関係者を入力して”プレゼン”を自動生成してみた。その結果できたのでは、今では懐かしい状況論関係者のアルバム。Wengerのものは最近の写真が多いようだ。

Etienne Wenger

Lucy Suchman

Jean Lave

John Seely Brown

フィンランド

8月末から9月上旬にかけてフィンランドへ行ってきた。

エンゲストロムのところでは、最近、オープンソースとか、スケートボード、グラフィティ とか、バードウオッチなどの分散的な組織、活動に焦点化して研究しているという。このことは、昨年のスペインのISCAR学会でも、報告されていたが、今 回は、エンゲストロムにも関連したこちら側のプレゼンをすると同時に、 最近のプロジェクトについて詳しく聞くことができた。

なぜこういうことが面白いかというと、こういう活動には、新しいタイプの生き方、新しい人々のつながり方、新しい仕事や活動に対する面白さの見つけ方、こうしたことに伴う新しいテクノロジーの使用といったことがあるからだ。

組織論的に言えば、こういう活動では、中心、境界といったものが明確ではなく、分散的に、いろいろなところから出現してくるところが特徴だ。こうした活動や組織のあり方は、従来のワークプレイス研究とは全く異なっている。

それでは、エンゲストロムのところでは、こういうことをどのようにやっているのか。例えば、オープンソースについてどんな研究やっているかと思ったら、Open Officeだった。MLやBlogなどがデータ。

しかし、今、オープンソースやるなら、やはりウェブ系、とりわけweb2.0的なものだと思う。それに、データをMLやBlogだけにするのではなく、 Open Officeを仕掛けているSunにアプローチするとか、実際に、 やっている人々にあってみることが必要だ。それに、エンゲストロムたちがイノベーションを看板にしているとするなら、実際にやっている人々と同盟するとか、少なくとも使っている 側としてからんでいくということを考える必要があるのではないだろうか。

今のところ、例えば、グラフィティのコミュニティを研究するにしても、彼らはフィールドワークしかできない。しかし、例えば、グラフィティの研究をする際に も、書き込み可能なGoogle mapのようなものがあるとき、そういうコミュニティの活動になんらかの形で絡むことが可能になる。こういう技術が少しでもあると、フィールド・ワークの可能性もひろがるし、活動やシステムの再デザインもできるようになるだろう。

社会科学のフィールドワークや理論は、重要ではあるが、そこだけで勝負しても、多分、これまでとそう変わったことはできない。このところ、人々やテクノロジーの布置が大きく変わった。もう90年代をくり返すことはできない。これは活動理論だけではなく状況論でも同じだ。

新サイト

その後、Blogger Betaは、様々な改訂が公約通りになされました。
そこで、状況論サイトをBlogger Beta上に再構築することにしました。

土曜日, 8月 19, 2006

ネットワークとしての状況論

「ネットワークとしての状況論」というタイトルで、ある本の1章を書いた。以下はその一節。この後、何が見つかったかということが、このブログのテーマ。

ネットワークの終焉
 私 自身は、1999年に半年間、スタン フォードですごしていた。そのとき、パロ・アルトは、これまで以上に閑散としていた。IRLにも人が訪れることはほとんどなく、そこで、研究会、ワーク ショップが企画されることもなかった。そのような、ある日、PARCにサッチマンを訪問した。そこで、「仕事実践とテクノロジー」(Work Practice and Technology)についてのワークショップがPARCであることを教えられた。このワークショップは2日に渡って行われ、世界から様々な人々が、集 まった。集まった人々は、このワークショップがどのような意味を持つものかよく知っていたはずだ。

 この1999年のPARCでの集会を もって、主に80 年代後半から90 年代にかけてパロ・アルトを拠点として展開した状況論ネットワークの活動は終焉した。その場に立ち会ったことは、私自身にある感慨をもたらした。この集会 は、一つの豊かな時代を表すものだったし、パロ・アルトには、もう何も生み出す力は残っていないことを示していた。このような感慨は、多くの参加者にとっ ても同じだっただろう。集会後、人々は、また、世界の各国に戻っていった。希望的に見れば、パロ・アルトはその役割を終え、種は世界中に撒かれたと考える ことも可能かもしれない。
 この後1-2年後に、IRLも、また、終焉の日を迎えた。ある部門は、あるコンサルタント会社に吸収された。メンバーの何人かは、独自に企業コンサルタントのベンチャーをおこした。
  私自身はもうパロ・アルトを訪れることはないだろう。状況論的な関心からすれば、すでに、そこにはほとんど何も残っていないからだ。1998年にパロ・ア ルト周辺に長期滞在したセス(Seth Chaiklin)も後年、同じことを言っていた。「もうあそこには何もない」そして「そうだとすれば、次に行くべき場所はどこだろうか、私たちは探して いる」とも。レイヴも、また、レイ・マクダーモット(Ray McDermott)も同様の見方をしていた。しかし、それは、たんに行くべき場所だけのことではなかった。恐らく、私たちは、次にどのようなテーマ、実 践に赴くべきかを探していたのだ。

お知らせ:再びBloggerへ

Situated Approachのサイトを、再度、Bloggerに置くことにしました。

木曜日, 7月 13, 2006

状況論とインタフェエース論の違い2

あらためて、状況論とインタフェース論の違いについて整理してみることにしよう。

・インタフェース論

日常のものの扱い方、道具の使い方を参考にしてシステムの上でそういうものを再現しようとする。そういう目的で、そういうセンスで日常を見る。

ひらたく言えば、アナログ的に使えるインタフェースの実現をめざす。逆に、そういうレベルで日常、現実を見ようとする。

ここにあるのは、日常をデジタルに載せよう、載せたいという発想。「もの世界わかりやすいじゃん、それなら、デジタル世界もものっぽくすればわかりやすい。」

活動の流れをみたり、活動の中で用いられる様々な人工物の連携を考えて新しい人工物をデザインしようということではない。

ひどい場合は、字ではなく絵にしたらいいという発想になる。

・情報デザイン

基本的には、インタフェース論にのっかったもの。デジタルにせよ、図による表現にせよ、孤立したインタフェースを作ることが目的。もの世界をデジタルに載せようという志向性。

リアルな世界のアナログ的な側面をシステムに載せようという発想は、偶然出てきたものではない。

世界のアナログ的な写しをデジタル世界に作ろうという一種の表象主義とも言える。

・状況論      

例えば、世界は、どのように、どのような人工物によって誰によって可視化されているか。どのような実践や社会組織の中でそういうことが行なわれているかということに関心がある。
        
活動の流れを見た上で、人工物をどのように再デザイン可能なのかを問う。

様々な人工物、リソースが、どのように連携して使われているか、一つを動かすと、全体がどのように再編されるのかを見る。

あるいは、ある活動の中における人々、知識、もの相互のアクセスの構造のデザインに関心がある。(こういう関心が、web2.0の技術への関心につながってくる。)

この観点からすれば、人工物のデザインとは、世界の写しを作るのではなく、世界や環境の一部を作るということ。
         
日常を見るという観点が、インタフェース論とは根本的に異なっている。

アナログでかっこよく表現することが目的ではない。状況論からすれば、ときには、シンプルな記号のリストが、もっともよい人工物になりうる。なぜなら、人工物は、一つで完結しているものではないから。

水曜日, 7月 12, 2006

状況論とインタフェース論の違い1

状況論とインタフェース論は人工物のデザインというとき、全く異なったことに焦点を当てる。

インタフェース研究は、ノーマンに代表されるように、システムを操作する際の表層的なわかりやすさ、使いやすさを研究、デザインしてきた。システムの操作系のアナログ化、デジタル的な対象の”直接操作”を可能にするデザインなどは、すべてこういう観点からなされている。

こうした観点の背景にある理論はシンプルだ。要するに日常の認知系、知覚系に自然にフィットする人工物こそが、いいデザインということになる。あるいは、日常のアナログな行為を、システム上でも実現させることが、インタフェースのデザインの目的になる。

しかし、日常の認知系、知覚系とは何か。抽象的に、かつ、一般的にそのようなものが定義できるだろうか。

あるいは、日常の行為をアナログというようなレベルで捕らえるような観点で、実践的に使えるデザインができるだろうか?

こういうインタフェースの発想の極限が以下にあるようなものだ。

三次元GUI

一言で言えば、こうした発想は、実践全体を見るとか、活動の社会性、多層的なリソースの関連付けた使用を見ていこうという発想が全くない。

もちろん、インタフェース研究が日常の行為を見ないというわけではない。問題は、見る際の観点だ。彼らが見ることは、素朴なアナログ的な認知、行為といったことに切り詰められている。

上のビデオの事例は典型的だ。つまり、日常の活動の観察が、アナログ的に書類を積み重ねるとか、まとめるとかそういうレベルにとどまっている。

し かし、人々は、意味なく書類を積み重ねるわけではない。なんらかの仕事があったり、仕事上、何物かへのアクセスを容易にするというような中で書類を積み重 ねている。要するに、書類を整理することの背景には、活動の流れがあるはずなのだ。ポイントは、ものをアナログ的に扱うかどうか、コンピュータを使う行為 か、使わない行為か、あちら側とこちら側という問題ではない。実践の中では、こうしたものは、すべて連関し、連続したものなのだ。

このように考えるとき、情報デザインのテーマは、インタフェースのデザインということを大きく超えたものになる。あるいは、従来とは、根本的に異なった軸に焦点を当てることを可能にする。

日曜日, 6月 25, 2006

書き込み可能なGoogle Map

主に研究室の学生がやっているのだが、今、Google Mapに書き込みできるサイトを構築している。最近流行のAjaxによるマッシュアップ。こういうサイトは、すでに数多くあるが、そういうものは、自分なりに再デザインすることはできない。

しかし、自前で作ったものは、ある程度、仕組みも、わかっており、いろいろ作り替えることも可能だ。コントロール可能なこういうものを見て、何人かでわいわいやっていると、具体的に何ができそうかイメージが湧いてくる。

技術的なアイディアは、具体的な技術の中身が見えないところから出てこない。中身が見えていて、作り替え可能なとき、自らの活動やテーマに関連づけたり具体的なアイディアが出てくる。

木曜日, 5月 04, 2006

音楽CDのロングテール

CDの売り上げが7年ぶりに前年を上回ったそうだ。

SFCの松村太郎氏のブログでは、iTuneやAmazonなどが、ロングテールを掘り起こしたからだという。
http://www.tarosite.net/blogging/

あえて言えば、こういうことにはwinnyやyou tubeなんかも絡んでいるだろう。

確かに、このところ、われわれの音楽へのアクセス可能性が大きく変わった。それによって、いろいろ聴いたり、知ったりすることができて、マイナーなものも欲しくなるというわけだ。

このように商品の流通の構造は大きく変わっている。
「探すことのデザイン」も。

こ ういう中での更なる「探すことのデザイン」は、例えば、AmazonデータのAPIを用いたハッキングとか、マッシュアップのデザインということになるの だろう。このようにweb2.0的な技術の文脈を考えるなら、「探すことのデザイン」は、従来の情報デザインとは異なったものになるだろう。

web2.0時代の本の著者と読者の関係

バフチンが、ある時期、作者と主人公の関係だけではなく、読者との関係も考えるべきだと指摘したそうだが、現代的なweb 2.0的な技術の中で、本の著者と読者の関係は明らかに変化しつつある。

知り合いがmixiで、ウェブ進化論へのコメントを書いたら、さっそく著者の梅田氏の足あとがついていたそうだ。

実際、以下の梅田氏のサイトで、彼自身で「ウェブ進化論」についてのコメントをSNSも含めて徹底的に調査しているという記事が載っていた。
引用されている村上春樹の記事も興味深い。
村上春樹


梅 田氏はblogを通して500名くらいの(熱心な)読者が見えると書いている。「ウェブ進化論」の場合は、出版前に、一部、blogなどで、記事が公開さ れ、すでに、blogネットワークの中ではよく知られていた。このようなことからこの著者は、blogは、アカデミーと一般の人々をつなぐものだとも書い ている。ただし、啓蒙ではなく、合意形成の場として。
もう一つ、著者と読者の関係を大きく変えているのは、言わずと知れたamazon。

いずれにしても本だけを出版するという時代は終わりつつある。ネットと連動させる、そういう時代だ。出版という営為もウェブという新しいテクノロジーのもとで大きく再編されつつある。 こうしたことは、新しいパースペクティブを持ったメディア論を要求している。